Category Archives: チベットに行ってもいいですか?

チベットに行ってもいいですか? 7

(6のつづき)

僕は人民軍のコートのポケットから薄っぺらい雑誌を取り出し、ページに目を落とした。

内容まで薄そうな、中国語の芸能誌。ほとんど意味の分からないその雑誌を、僕は出発からずっと読むフリをしていた。それは言ってみれば周囲から僕を守る壁だった。僕は雑誌に目を落とすことで周囲にひとつのサインを送っていた。僕は中国語はわかる、だけど誰も話しかけるなよ、というサインだ。

その雑誌はゴルムドを出発する直前、ネズミ男が僕に手渡したものだった。そのときはもう筆談をしている余裕はなく、ネズミ男は中国語とジェスチャーで僕にその意図を伝えようとしていた。席に着いたら、これを読むフリをしていろ。周りの乗客とはひと言も話すな。運転手とも、話すな。ネズミ男の意図を要約すると、そういうことになる。そして僕はその掟を忠実な下僕のように頑に守っている。あと何日かかるかもわからないようなこのバスの旅で、無言の行を貫き通すのはなかなか骨の折れる話だ。しかし僕にはそのバカげた掟を守り通さなければいけない理由があった。守らなければ、ラサには到着できない、ネズミ男にそう告げられていたのだ。

(つづく)

チベットに行ってもいいですか? 6

のつづき)

うとうとと眠くなる。

出発してからこのかたきっちり眠れていないので、昼間にも睡魔がやってくる。高度のせいで徐々に酸素が薄くなってきているのだろうか。少し、頭が痛い。

窓の外にはヤクの群れが緩慢な動きで草を食んでいる。チベット帽をかぶった少年が数人、投げ縄の練習をしているのが遠目に見えた。圧倒的な大自然の表面に、小さな点のようにへばりついている人間の暮らし、それが窓から徐々に見えてくるチベットだった。

もういちど、ゴルムドのあの男と出会ったときを思い出していた。僕がゴルムドに到着した夜、あの男は安ホテルの僕の部屋をノックした。少しだけ開けたドアの隙間からヌッと出てきた顔は、マンガのネズミ男にそっくりだった。これほどネズミ男に似ている顔が実際に存在することに驚いた。

ギョロッと両目を光らせて、ネズミ男が何やら話しだした。早口の中国語で内容は全くわからないのだが、シージャン、ラーサといった単語が所々に出て来たので、夜の街へ遊びに行こうというお誘いでないことはすぐに理解した。僕が中国語をちっとも理解しないので、もどかしそうに男は紙とペンをポケットから取り出し、西蔵、と書いてから僕の顔を指差した。

西蔵は中国語でチベットのことだ。お前はチベットに行くのか?とごく単純なことを質問していたのだ。シー、と答えると、ネズミ男は少し不敵な笑みを見せ、そのことで話がある、とばかりに身を乗り出した。もう喋って意思の疎通をはかることは諦めたとみえて、達筆でさらさらと紙になにやら書き込んだ。

突然、脇腹を小突かれて、ネズミ男の回想は中断された。揺れるバスの中、隣席の男が中国語で話しかけていた。やはり何を言っているのか理解できないが、この様子だとおそらく何度か話しかけ、僕に反応がないことに少々いら立っているようだった。脇腹が少し痛んだ。

僕は男と目を合わせたが、それ以上は何も反応を返さなかった。男が発した言葉は虚しく宙を漂っていた。僕に無視された格好になった男はさぞかし不愉快な気分だろうと想像したが、男はそれほど気にするふうでもなく、ちょっとだけ肩をすくめ、足下に置いた自分のカバンをゴソゴソと漁り始めた。

出発してから何度もこんなことを繰り返している。もちろん本心からのことではない。僕の方こそ、周りの乗客に話しかけ、ここはどこなのか?目的地まであとどのくらいなのか?検問はあといくつあるのか?訊きたいことは山ほどあるのだ。

だが今の僕は、そのうちのひとつも尋ねることはできなかった。それどころか、中国語が「わからない」ことを周囲に悟られてはいけなかった。それがネズミ男のもうひとつのルールだったからだ。

(つづく)

チベットに行ってもいいですか? 5

のつづき)

僕はタイミングを計っていた。

車内には乗客達が戻り始め、外には運転手を含め4、5人が残っていた。最後のひとりが食事を終え店を出たとき、できるだけ目立たないようにしかし速やかに、僕はバスの外に出た。片手にほぼ空の瓶を持ち、そのまま一直線に店に向かい、食料品店のカウンターに並んでいるものを大急ぎで物色した。

残念ながらそこには充実した食事になり得るものは一切なく、ただただスナック菓子やガムやタバコが置いてあるだけの貧相なものだった。その中からビスケットというよりは乾パンに近いような包みを3つ手に取り、黙って中国元の札をカウンターの中のおやじに手渡した。傍らに置いてあるポットに入ったお湯を、僕のお茶の瓶に移す。これでまたしばらくお茶には困らないだろう。

そそくさと店を後にしてバスに向かうと、もう僕を除く全員が車内に収まって、僕が乗車するのを待っていた。
乗客達が温かい食事を取っているときにはバスから降りようともしないで、皆が出発する頃になっていそいそと乾パンだけ買いに行くような男を、やはり大半の人間は怪訝な表情で見守っていたようだ。それも今回が初めてではなく、出発以降、食事時には似たような行動を繰り返している。そろそろ周りの乗客の好奇心もかわせないほど大きなものになってきているのかもしれない。それでもバスの後方に位置する僕の座席に戻るまで、誰も僕に話しかけて来なかったのは幸いだった。もし話しかけられていたら、僕はそれを無視しなければならない。何も聞いていないかのように、無視しなければならないのだ。

バスはまた走り出し、揺れる車内で乾パンとお茶の朝食を素早く済ませた。乾パンは味がしなかった。車内は相変わらず暑かったが、コートは脱がなかった。窓から差し込む朝日がジリッと肌を焼いたような気がした。チベットの太陽だ、と思った。空が近いのだから、太陽だって近いんだ、と妙な理屈にひとり心の中で頷いた。

(つづく)

チベットに行ってもいいですか? 4

のつづき)

バスはしばらく走り続け、広大な野原にポツンと建つ小屋の前で停車した。夜の間に堅くなった身体を伸ばしながら、乗客達がぞろぞろと外に出て行く。隣に座っていた男が中国語でひと言僕に話しかけた。きっと、お前は行かないのか?と言ったのだろうと予想はつくのだが、僕は無反応のまま窓の外を眺め続けた。

運転手も出て行ってしまうと車内には僕ひとりが残った。寝不足の緩慢な動作で小屋の中に吸い込まれて行く人々を、ぼんやりした目で眺めていた。

小屋はどうやら簡素な食料品店と食堂を兼ねた場所で、休憩と朝食をここで済ませるようだ。あばら屋のような造りの店内はバスの中からでも様子が見てとれた。乗客達は地面に直接置かれた粗末なテーブルにつき、うどんとラーメンの中間のような麺を丼から啜っていた。

僕も空腹だった。出発してから一度もまともな食事にありついていなかった。今すぐバスを飛び出し、外の新鮮な朝の空気を吸い込み、身体を思うままに伸ばし、乗客達と共に温かい食事を取りたかった。

だが僕にはそれができない理由があった。ゴルムドの男が決めたルールだったのだ。「誰とも一緒に食事してはいけない」濁った目をしたあの男にそう告げられていた。

こんな旅の仕方があるか?

今更ながらにあの男の話に乗ったことが悔やまれて来るのだが、もうすでに後戻りできないことは僕が一番良く知っていた。このルールを頑に守ること以外に僕には選択肢がなかったのだ。

いつの間にか太陽が顔を出していた。朝の光に照らされ、白い雪に覆われた巨大な峰が目の前に聳えていることに初めて気がついた。ヒマラヤだ。ラサはあの麓にあるはずだ。僕は目的地への確かな目印を発見したような気になって、暫く空腹を忘れ見入っていた。空が青い。他のどんな場所で見たものよりも、青い。手を伸ばせば届くところに空があるのを感じた。

乗客達がひとり、またひとりと車内に戻り始めた。この不規則に揺れるバスの夜で熟睡できた人間はいなかったのだろう。やはり誰もが疲れ切った顔をしていた。

につづく)

チベットに行ってもいいですか? 3

のつづき)

熟睡はできない。

いつしかウトウト眠りに入るとすぐに目覚め、ぼうっとした頭で瓶を出してお茶を飲む。暑さに苛立ち、苛立つことに疲れ、また少しだけ眠る。そんなことを繰り返しているうちに窓の外は薄く白み始めていた。

堅い土だけの山に、轍が作った道らしき線が一本伸びている。

その線を辿ってバスは山を登っていく。

あちこちガタついたこのバスの、頼りなげな小さなタイヤが、少しずつ土を踏みヒマラヤに向かっていることが、なにかしら奇跡めいたものに感じられた。

いつのまにか小さな集落に入っていたようで、あちこちに人間の暮らしの匂いが感じられて、それが不思議なほど大きな安心感を僕にもたらしてくれた。石を積み上げて作った家の間を通り過ぎ、藁を積んだ馬車とすれ違った。馬車に乗った男は独特な民族衣装を身につけていたので、どうやらすでにチベット文化圏に入ったようだ。

集落をもう抜けようかというときに、突如バスが停車した。

運転手が道に立つ数人の人間と中国語で話している。ドアが開き、制服を着た男がひとり車内に入って来た。

公安警察だ。僕の体内に緊張が走る。大丈夫だ、大丈夫。心の中で自分に言い聞かせ、シートに深く身を沈める。誰とも目を合わせないように窓の外の遠くの山を見つめる振りをするが、意識は運転席の横に立つ男の動きに強く向けられていた。運転手と短く言葉を交わした後、その男は車内の乗客に目を向けた。検問が始まったのだ。バスの後方に座っていた僕は、前の乗客の影に隠れるように更に深く身を沈めた。目立たないように、そっと。こっちに来るな、と願った僕の思いが通じたのだろうか。男はジロジロと威圧的な視線を乗客の間に這わせた後、またひとこと運転手に何かを伝え、そのまま入って来たドアから出て行った。運転手は窓から公安の数人に大声で挨拶をすると、アクセルを踏みまたバスを前進させた。

全身の筋肉が弛緩する。安堵の溜息をついたものの、このような検問をいくつ越えればラサに到着するのかと、気の遠くなるような思いがした。次の検問を通過できる確証は、今の僕にはない。

につづく)

チベットに行ってもいいですか? 2

のつづき)

座席は隙間なく乗客で埋まっていた。

チベットに向かうバスにも関わらず、チベット人は乗っていないようだ。見渡したところ僕を除く全ての乗客が中国人のようだった。エンジン音だけが響き渡る無言の車内で、僕はまた浅い眠りに落ちていった。

どのぐらい眠っていたのだろうか、不規則なエンジンを吹かす音で目が覚めた。バスは停まっていて、さっきまでいたはずの乗客たちが車内から消えていた。運転手はハンドルを握り、アクセルを踏み込んでいる。エンジン音にタイヤが空回りする音が混ざる。

前方の開いているドアから外に出る。汗ばんだ肌が冷たい外気に晒されて急に冷めてくる。乗客たちはバスの後方に集まりひとつの固まりのようになっていた。どうやらタイヤを砂に取られスタックしてしまったようだ。バスの窓から漏れるぼんやりとした光を頼りに僕もその固まりに加わった。タイミングを合わせて力を入れる。20回ほど繰り返して、やっとバスは砂を蹴って動き出した。

乗客たちは無言でバスに戻る。旅が始まってまだ1日も過ぎていないうちに、誰もが疲れていた。僕も座席に戻り、堅いシートに身体を預けた。そしてまたバスは不規則に揺れ始めた。

外に出て冷えきった体がすぐにまた熱を帯びて来る。足下から熱気が上がって来ているのだ。座席に座った僕の両足の間を、銀色の鉄パイプが這っていて、出発してからずっとこれが熱気を放っていた。どうやらこの鉄パイプが車内の暖房の役割を担っているようだ。鉄パイプはおそらくエンジンのどこかに直結していて、その熱をぐるりとバス全体に拡散する仕組みになっているのだろう。

この暖房が、出発してからこのかた、暑すぎるのだ。

ゴルムドを出て早々、周りの乗客はコートを脱ぎシャツの腕をまくった。僕もそうしたかったし、そうすべきだったのだが、出来ない理由があった。

ゴルムドのあの男と僕だけしか知らないルールがあったのだ。あいつが大真面目に僕に課した厳格なルール。そのひとつが、「コートを脱いではいけない」だった。

出発前夜、どこをどう歩いたのか皆目見当もつかないような路地の奥。裸電球がぼんやりと照らす露天の古着屋にあの男は僕を連れて行った。

あっさりと「これを買え」とあいつが選んだものは、あちこちシミの付いてすり切れた中国人民軍のカーキ色のコートだった。300円ほどの古着を言われた通りに買いそのまま着てみると、その外見とは裏腹に造りは大層頑丈で分厚いものとわかった。軍用品だ、と実感したが、コート全体から発するかび臭さには閉口した。

僕は忠実に男とのルールを守り、そのコートを一度も脱いでいない。半日経った頃には身体から饐えた匂いが漂い始めていた。

(つづく)

チベットに行ってもいいですか? 1

不快な暑さのせいで、肌がベトベトに汗ばんでいた。

暑い、と言葉にしようとして、声が全く出ないことに気づく。

驚き、焦り、どうにかして呻き声のひとつでも喉の奥から絞り出そうとするのだが、僕の声帯からは小さなささやきすら出てこない。

混乱の極みに達した僕の目の前に、一台のバスが現れる。それはエンジン音すらなく、無音で僕に近付いてくる。僕はその場から動く事が出来ない。そして、助けを呼ぶために叫ぶ事も出来ない。

バスがぶつかるーー。

その瞬間、目が覚めた。

知らないうちに浅い眠りに落ちていたようだ。周りを見渡す。バスの中だ。右に左に居心地悪く揺れている。このせいで悪夢を見たのだろうか。ひとつ咳払いをする。喉から出た音を聞き安堵する。それにしても、暑い。

僕を乗せたバスはチベットの首都、ラサに向かっていた。12時間前、ゴルムドという街からこのバスに乗った。目的地に着くまで丸々2日か3日かかるらしい。誰も正確な到着時間はわからないようだ。順調に行けば2日、難儀な旅なら3日ないしはそれ以上ということなのだろう。

窓の外は日も落ちて、漆黒の闇が果てしなく続いている。人間の営みが存在する事を否定するような、完全な黒。目を凝らしても何も見えてこない闇の中を見続けていると、自分とこのバスだけが無限の宇宙をさまよっているような心細い気分になってくる。

足下のカバンから瓶を取り出し、中のお茶を呑む。中国では誰もが瓶を水筒代わりに使っていて、僕もそれに倣っていた。汗をかいているのでお茶がうまい。

もう一度窓の外を見る。ゴルムドで出会ったあの男のことを思い出していた。隠れるようにして僕をこのバスに乗せたあの男だ。頬が痩けて両目だけがギラギラしたあの男の顔が、窓の向こうに浮かび上がった気がした。

僕はあいつの計画に乗った。あいつの言う通りにして、今ここにいる。

今さらになって、これで良かったのだろうかと考えてしまう。だがもう考えても手遅れだ。賽は投げられた。バスは走り出したのだ。

につづく)