Yearly Archives: 2010
(「エリトリアで借金を 2」 つづき)
アジスアベバまではバスで一直線。
寄り道することもなくハイレ・セラシエの都へたどり着く。数週間ほどゆっくりしたい気分になるが、財布の状況がそれを許してくれない。でもせっかくここまで来たんだし、と悶々とした葛藤の末、3日間をここで過ごすことにした。
アジスアベバは都会のわりにはのんびりとしたところで、やさしい人が多かったように記憶している。ただやはりどこでも悪いやつらはいるもので、3人組の若者に、ティーセレモニーに連れてってやる、と誘われて、3時間近く歩かされたあげく、コーヒーの一杯も飲ませてもらえないまま、金をよこせ、とすごまれた。普段だったらビビってしまっているのだろうが、元々少ないなけなしの金を奪われては死活問題だ。
生きるか死ぬかは大げさにしても、イスラエルまで行けるか行けないか、という切羽詰まった状況が背中を押したのか、今振り返ってもそこまでしなくても、と思うくらい獣じみた狂気の様態で噛みつかんばかりの威嚇を彼らにしていた。
言うまでもなく3人組はドン引きで、狂人を相手にしてしまったと思ったことは間違いない。口の中で何かをモゴモゴつぶやきながら、僕ひとりをその場に残し、プイっとどこかへ立ち去った。150ドルばかりのお金を守るため、なにか人として大事なものをなくしてしまったような気になって、カツアゲを撃退したという勝利感は全く感じない。トボトボと宿に向かって何時間も歩いて帰った記憶が、15年経った今でも痛い。
アジスアベバまではとにかく北へ、と来たけれど、ここでイスラエルまでのルートを具体的に決めなければならないようだ。スーダンを通り陸路をエジプトへ、と漠然と思っていたのだが、スーダンはまったく未知の世界、情報すら皆無に等しい。当然、何日ぐらい、いくらぐらいかかるのかもわからない。
とりあえずエジプトに行きたいのだけれど、と街で聞き込みをするうちに、エリトリアから紅海をさかのぼってスエズに行く船がある、と教えてくれた人がいた。
ただ、誰に聞いても詳しいことはわからない。船が出てる、というのは本当のようだが、それが毎日出てるものなのか、一週間に一便なのか、はたまた一ヶ月に一便なのかは行ってみないとわからない、という。もちろんいくらかかるのかもわからなかった。わからないが、考えてみればそれはどんなルートを取っても同じことで、船に乗ってさえしまえればあとは波の上を一直線のはずだから、再びスーダンで荷台の旅をするはめになりそうなことを考えれば、こっちのほうがはるかに速いし安いだろう。きっと、たぶん、そうなんじゃないか。
確信のないままエリトリアという聞き覚えのない国の上に、残り少ない賭け金を置くことに決めた。
(4につづく)
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エリトリアで借金を 2
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(「エリトリアで借金を」 つづき)
バスに飛び乗った、までは良かったが、急いている気持ちに反比例してバスは動く気配がない。
まだ出ない?と誰に訊ねても、ケニアの言葉でポレポレ、ゆっくりゆっくり、という返事しか返って来ない。昨晩の酒も残っているし、焦っていたから朝食も食べていないしで、もうこうなったらとことんポレポレ、とぐったり座席に沈み込む。結局バスが走り出したのは4時間遅れの昼頃だった。
懐具合を考慮に入れれば、もう途中下車の旅なんて余裕はかましていられない。とにかくこのバスが行き着くところまで。そうは思っているのだが、きちんと人の話を聞いてみると、このバスはどうやらイシオロという村が終点だという。そこで乗り換え?なんて思っていたのは大甘で、そこからさきはバスもなにもなくなってしまうので、勝手にヒッチハイクでもして行くしかないらしい。その途端、果てしなく遠く感じるイスラエル。いや、実際に遠いのだが。
薄暮の夕方6時頃、終着駅であるイシオロに到着した。ここで一泊して翌朝トラックでも探しなさい、と言われ、気づくと4、5人は北上組がいるようだ。この人たちにくっついていけば、エチオピアとの国境ぐらいは行けるんじゃないか、と少し安堵して宿を取る。
翌朝4時に眼を覚まし、まだ暗い中広場に出てみると、4トンぐらいのトラックが一台停まっている。あれに乗っけてもらえれば、と近づいて行って驚いた。薄明かりの下、荷台にはたくさんの人間がぎっしりとうずくまっていた。エチオピアから作物かなんかを運んできたトラックは、復路には人間を載せて走るのだ。ヒッチハイクといえども運転手にそれなりの代金を払って、荷台に一人分のスペースを確保してうずくまる。みんな頭からすっぽりかぶれる布を持参していて、準備不足、リサーチ不足の自分が恨めしい。
それでもどうにか乗り込んだトラックは出発し、ひたすらサバンナの道なき道を行く。
正直言うと、そこから数日の記憶はあまりない。憶えていることは、ガゼルかなんかの群れをちょくちょく見たことと、荷台とはいえ隙間なく人間が詰まっているので思ったよりも不安定ではなかったこと、それでもトラックが窪みで跳ねたとき、最後尾の人間も跳ねて地面に転げ落ちたこと、ぐらいだろうか。もちろん落ちた人は直ちに回収されていた。
夜になると宿場のような場所でそれぞれ宿を取り、朝になると集合して北へ向かう。一日走り終わったあとにやっと体を伸ばしてみると、頭も服も砂埃で真っ白になっていた。旅慣れた現地の人たちは、かぶっていた布をパンパンとはたいてそれで終了。僕は耳の中まで砂だらけだったが、シャワーに入れた記憶はない。何を食べていたのかも記憶はおぼろげで、バスとは違って同乗者たちとの会話もほとんどないまま、三日間の荷台の旅は、エチオピア南部のシャシャマネという町で突然終わる。
荷台を降ろされたのは、ここからはまた北へ向かうバスがあるからだ。
会話はなかったもののつらい旅をしたもの同士、なんとなくの一体感は感じるもので、荷台のなかの何人かが、アジスアベバ?と話しかけて来てくれた。そう、アジスアベバに行きたいんだ。そう言うと、いっしょに行こう、と誘ってくれる。こういうことが、こういう場所ではとても心強い。
余談になるが、エチオピアにいるときは、どこにいても聴こえてくる曲があった。僕は勝手に「エチオピア音頭」と名付けているのだが、とにかくエチオピアの地名の連呼、アジスアベバ〜、アジスアベバ〜、シャシャマネ、シャシャマネ、他の地名は憶えていないが、かならず二回ずつ繰り返し、最後にエ〜チオピア〜ア〜ア〜、ン〜ダリマサア〜、と締める。ン〜ダリマサア〜はうる覚えだし、なんのことやらわからないが、とにかくどこでも聴こえてくるので15年経った今でも耳に残って離れない。この時点ではもう財布の中身はこれ以上ないほど心細くなっていたので、この曲のテープをどうしても買えなかったのが今思い返してみても悔しい気がする。
シャシャマネに着いたその日は宿を取り、翌朝、アジスアベバ行きのバスに乗る。荷台の旅を終えた後ではおんぼろバスでも快適だ。このとき、残金約150ドル。
(3につづく)
A:Nairobi B:Isiolo C:Shashamane
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少し前の話になるが。
愛宕神社のすぐそばに、NHKの放送博物館という建物がたっている。あるとき偶然まえを通りかかり、余った時間をつぶしたくもあり、ものは試しと入ってみた。
ここは昔のNHKの番組が無料で観れる図書館のような施設であって、NHKスペシャルを一本観れば、次の用亊までちょうど良い具合かな、と番組表を物色する。
ほとんど観た事のない古い名作集のなかで、ひとつのタイトルに目が止まった。
希望のSL鉄道 〜若きエリトリアの国づくり〜 (放送:1998年)
アフリカの右肩に位置するエリトリアという国が、エチオピアとの戦争のすえ独立し、荒廃した国を復興して行く様を丁寧に追ったドキュメンタリーだ。戦争の間、20年以上もほったらかしにされ機能を停止していた、国を横断する鉄道が、国民の熱意によって復活を遂げるまで、を象徴的に捉えていた。
僕は鉄道に強い思い入れがあるわけではない。目が止まったのはエリトリアという国名だ。この名は僕にはとても懐かしく、ある種特別な響きがある。もう15年ほども前になるが、僕はその名の国にいた。懐かしいのはそれからの15年、ほとんどその名を聞く事がなかったからで、特別な響きを持っているのは、そのとき僕がとても困っていたからだ。
番組の中で、首都であるアスマラから紅海沿岸のマサオアという港町まで続く線路を、エリトリアの人々はほとんど手作業に近いような装備で作って行く。外国からの借金は増やしたくないという思いから、外資の提案を断って自分たちの資本で線路を敷き直し、1930年製という年代物のSLを、自国の技術者の手で修理して、磨き上げ、沿道に住む人々が見守る中、乾いた地面しかないような国土を試運転していく様子を映していた。
この鉄道が走るルート、アスマラからマサオアという道を、かつて僕もバスに乗って旅をした。僕がいたのが95年だから鉄道はまだ復活していなくて、他に選択肢はなかった。自ら戦って勝ち取ったからだろう、独立したばかりの国に人々は強い誇りを持っていた。バスに乗り合わせた人たちは皆一様に瞳を輝かせて、唯一の外国人である僕にエリトリアという国の全てを披露してくれようとした。ここら辺りはこういうところで、という説明から始まって、食事のために休憩すれば誰がこの外国人にご馳走するかで、おれがおれが、と揉めていた。僕はそんな彼らに尊敬と羨望の念を抱きつつ楽しみながらも、それ以上に大きな不安を抱え、押しつぶされそうになっていた。
話はそれから1ヶ月ほど前にさかのぼる。上海から長い旅をスタートした僕は、様々なトラブルに見舞われながらもチベットを越えネパールを過ぎ、インドから飛行機に乗りケニアにたどり着いた。強烈なインド社会に少し疲労していたせいもあったのだろう、ケニアでは貧乏旅行に似合わないほど毎日財布を開いて遊びまわった。懐具合を顧みる事なく遊ぶこと数週間、ふと手持ちのトラベラーズ・チェックが少なくなっていることに気がついた。
でも、大丈夫。TCは残り少なくなっていても、僕が旅のために貯めたお金の半分はシティ・バンクの口座に入れてある。シティの人は世界中にATMがありますよ、と言っていたのだし。
その夜中、安宿の小さな部屋でビールを片手に、シティ・バンクからもらってきた小冊子で、どこでお金を引き出せるか調べてみる。どうもケニアにはないらしい。僕は陸路を北上してヨーロッパに入るつもりだったので、そのルートのどこにATMがあるのか辿ってみる。エチオピア、ない。スーダン、またはエリトリア、ない。エジプトもなくって、やっと見つけたのがイスラエルだった。
頭を整理して考えてみると、どうやらイスラエルまでは手持ちのお金でたどり着かなければならないらしい。財布の中身をチェックする。全財産、米ドルで200と少々。その金額で、現在地のナイロビからイスラエルまで。もしたどり着けないと、どういうことになる?
その翌朝8時、僕は北に向かうバスに飛び乗った。
(2につづく)
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もう長いこと東京の隅っこの下町に住んでいる。
下町というのは地域のことではなく、正確にはコミュニティを指す言葉だ、ということが、長く住めば住むほど身にしみてわかって来る。
斜め向かいのおばさんが、ちゃきちゃきの気っ風の良さで、田舎から野菜が届いたから持っていきな、とじゃがいもなんかを持ちきれないほど手渡してくれる。
二軒となりのおじさんは、僕が庭木の剪定で慣れない汗をかいていると、おれこういうの大好きなんだよ、とノコギリ片手に参戦してくる。にいちゃん、この枝も切っちゃってかまわないかい?
正面向かいのじいさんには、僕が何も告げずに1週間ほど旅に出た後、そこそこ激しく怒られた。いねえから独りで死んじまってんのかと思ったぞ、ひと言いってから留守にしろ。
数え上げたらきりがないが、僕が向こう三軒両隣の大人たちからもらった分の、お返しをできてないのは確実だ。
今日も考え事をしながら近所を歩いていて、隣のじじいに怒鳴られた。にいちゃん、ぼーっとしてっと車にひかれて死んじまうぞ。
いつかは僕もそんなうるさいじじいになるんだろうか、と考える。
全く悪い気はしない。
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強い写真には、どこで出会うかわからない。
当たり前だが、これほどの量の写真に日々晒される生活は、ここ十年ほどの時代を生きた人間以外に前例がないだろう。
横丁の、角を曲がればお店の壁に広告の写真が貼ってあって、といったことは昭和の初期からあったのだろうが、ネットに繋いだ瞬間に、望みもしない多くの写真を見せられる、なんていう経験は、この頃以前の人間は持つ必要がなかったはずである。
ユビサキだけでクリックすれば、今日の晩ご飯やセクシーなお姉さんや新発売のスポーツカーなんかが我も我もとこちらの目に脳に飛び込んで来る。その副作用は一体どういうことになるのか、なんていうことは全く想像もつかないが、なんの縁だか写真というものを生業にしている身としては、おもろい時代になったなあ、と思わずにはいられない。
そんな時代なのに、というよりも、そんな時代だからこそ、目にした瞬間に内臓をわしづかみにされてしまうような写真に出会うことが割合としては少なくなってきている気がするのだが、反対に、意図していない瞬間に、とんでもなく強い写真に出会ってしまい、心の準備もないままに五臓六腑を引きずり出されてしまうような、快とも不快とも言えないような経験をすることがまれにある。
ヒマラヤやチョモランマ関係の調べものをしている最中に、久しぶりにそんな経験をした。
登山家であるジョージ・マロリー(George Mallory)を撮影した写真である。まだチョモランマの頂上に人類が到達していなかった頃、1920年代に活躍したイギリス人で、マロリー自身、21年、22年、24年と3度の挑戦を行った。結果を先に言ってしまうと、その3度とも頂上の踏破は叶わず、人類初の登頂は1953年のエドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイまで待つことになる。
マロリーは24年に行われた3度目の挑戦で、サポート役のアンドリュー・アーヴィンと共に行方不明になり、帰らぬ人となってしまった。頂上に最も近い第6キャンプから、二人が頂上に向け登って行く様子を見つめていた遠征隊員のひとりであるオデールの目撃証言を最期に、ふたりはこの世からいなくなってしまったのである。
ふたりの生存に関しては、キャンプに戻って来ないことからも絶望的と思われたが、そこでひとつの謎が残された。
ふたりが行方不明になったのは、登頂を果たした後なのか?それとも頂きに達する前なのか?
果たして、ふたりは頂上を踏んだのか?
今となっては確認をとる術もなく、謎は謎としてヒマラヤの氷の中に永遠に凍結されることになる。「頂上を踏んだら妻と娘の写真をそこへ置いて来る」と言い残していたその写真も、後の登頂者に発見されることはなかった。
Chomolungma/Sagarmāthā
そしてそれから75年という歳月が流れた1999年、アメリカ隊によって頂上付近でうつぶせになったマロリーの遺体が発見される。遺体や遺品の状況等が調べられたあと、マロリーは隊員たちの手によって葬儀、埋葬されるのだが、発見時の大きな記録として撮影された写真が、今回僕が偶然目にしたものだ。
8000m級の山の頂上付近という特異な気候条件の下、75年が経ちながらも遺体は白骨化していなかった。うつぶせになって瓦礫に頭部を埋めている遺体は、破れた服から背中をむき出しにして晒している。何故だか色素が抜け落ちてその肉は真っ白になっている。垣間見える服装や装備は現代からは信じられない素朴なもので、鋲を埋め込んだ靴底なんかも、山には素人の僕でさえ多分に心細くなるほどの古めかしさだ。
予期しない形でこの写真に出会ってしまった僕は、前人未到の頂きに挑戦し、命を落としてしまったマロリーの無念さや勇気や強さや、ベースキャンプで待ち続けたオデールたちの歯噛みするような悔しさや、戻って来ると信じて疑わなかったマロリーの妻や子供たちの言いようもない哀しさや、そういう言葉にできもしないたくさんの人々の想いをふいに眼前に提出されたような気になって、ぐっと息を吐いたまま、しばらくの間、目を離せなくなってしまった。
写真家が写真家として撮った写真を論ずる以前の、根本的な写真の強さがそこにあったように感じたのだ。
写真とは主要な芸術の中でただ一つ、専門的訓練や長年の経験をもつ者が、訓練も経験もない者に対して絶対的な優位に立つことのない芸術である。
そんなことをある思想家が書いていたのを読んだことがあるのだが、マロリーの写真を撮ったのが経験を積んだ写真家か否かはさておいて、現実に対する視点や解釈を根こそぎ圧倒してしまう、そんな巨大な事実の前では、訓練や経験なんかは毛ほどの意味もなく、だからこそこのような事実の前に立ち向かうためには写真という手段は飛び抜けて強力なものなのだ。言葉を換えれば、写真というものは、撮影者の訓練や経験や技術といった、本来は媒介になるための重要な要素をことごとくいとも簡単に飛び越えて、目の前の現実と直結してしまう。写真はときにウソをつく、といった問題はまた別にあるにしても、目の前に広がる現実は、それが圧倒的なものであれ些末なものであれ、カメラの前では腹を見せた子犬のように素直で素朴なものになってしまう。
行方不明になったとき、マロリーは一台のカメラを持っていた。当時としては最新鋭の、コダック社製のブローニーフィルム用のポケットカメラだ。そのカメラと、もしかしたら撮影済みのフィルムが見つかれば、永遠と思われていた謎が解けるのではないか、つまり、マロリーとアーヴィンが頂上で写真を撮っていれば、登頂の確たる証拠になるだろうと思われていたのだが、幸か不幸かマロリーの遺品の中にはカメラもフィルムも含まれてはいなかった。
「カメラが発明されて以来、写真はいつも死と連れ立っていた。」
さきの思想家はそういえばこんな言葉も残していた。
ヴェストポケット コダック(Vest Pocket Kodak)という名のそのカメラは、未だに発見されていないアーヴィンとともに、今もヒマラヤの氷の中に眠っているのだろうか。
参考文献
そして謎は残った―伝説の登山家マロリー発見記
posted with amazlet at 15.11.17
ヨッヘン …
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所用があり友人に電話をかけてみたところ、こんなに天気の良い休日の昼下がりにもかかわらず、声が重く反応が鈍い。
不審に思って聞いてみるとどうやら昨晩呑み過ぎたようで、ひどい二日酔いの真っ最中ということだ。その夜また別の友人に電話をするとこちらもまた二日酔いで、生涯で二番目につらいほどで仕事もまったく手に付かなかった、とぼやいていた。
そしてまたこれを書いているこの僕も、そこそこひどい二日酔いを引きずっていて、はっきりしない濁った頭でパソコンに向かっている。
人はなぜ、二日酔いになるのだろう。
その答えは単純で、呑み過ぎるからだっていうことは頭では十分わかっているのだが、ではなぜ頭ガンガン、吐き気も少々するほどの苦しみが、夜明けとともにやってくるのをわかっていながらも相も変わらず呑み過ぎるのか、っていうことになるとその時点で思考は深い霧の中、とたんに良くわからない。
一言で言ってしまうと、楽しくなってしまうからなのだろうが、そこには前回ひどい二日酔いに陥ったときの、自分自身に対する叱咤や反省などはまったく反映されていない。
その叱咤、反省をしたことすら記憶の片隅の埒外に追いやられ、そしてこれが一番大きな理由なのだが、その叱咤も反省も忘却してしまう自分自身を不思議なことにそれほど不快とも思わない。
人間は結局、快を求めて生きる動物なのだから、性懲りもなく叱咤や反省を忘れてしまうことへの不快よりも、呑んで酔って楽しくなってしまう快のほうが僕や二日酔いの友人たちにははるかに大きいということなのだろう。
今日もまた、節度を越えて呑み過ぎてしまったことへの叱咤と反省をちょっとだけしている。
そして明日の朝訪れる忘却。明日の夜訪れる痛飲と泥酔。
その3点を結んだ正三角形を右往左往しながら、また朝は来る。
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LADY GAGAにハマってしまった。
数日前の話になるが、来日中のLADY GAGAのライブを撮影する機会があった。
化粧品メーカーMACの主催するエイズ基金のチャリティイベントで、シークレットライブということで通常のライブ会場とは比べ物にならないほどのアットホームかつこじんまりとしたステージだった。
仕事での撮影なのでここにお見せすることができないのは残念だが、運良くステージ最前に位置できたこともあり、ありえないぐらいの近さにLADY GAGAがパフォーマンスしていた。ときとして50cmぐらいの距離に彼女が近づいて来てくるものだから、広角いっぱい24mmにしても近すぎるので、そんなときは少し後ろにのけぞりながらの撮影になった。
過去にライブ撮影は数多くしてきたが、ステージや会場の条件などで、パフォーマンス中のアーティストにそこまで近づけるというのは珍しい。
通常のライブはもっとステージが大きいのがふつうだし、柵や機材やセキュリティが行く手を阻む場合が多々あるのだ。僕の好みとしてはライブ写真はやはり被写体に近づけるだけ近づいて広角レンズで撮りたいと考えるので、ルールを守った上でどこまでアーティストに近寄れるか、というのがどの撮影でも第一の課題になる。
今回のLADY GAGAの場合は理想的にうまく事が運んだ結果で、少々興奮気味で気を良くしながら会場を後にした。
そう書きながらお恥ずかしい話であるが、正直に言うとそれまでLADY GAGAの曲はほとんど聴いたことがなかった。しかしライブで実際に見聞きした彼女のパフォーマンスは圧倒的で、こんな存在のためにひとはオーラという言葉を使うのだろうと思わせるものだった。世界のポップシーンのど真ん中で、名実共に今の時点で「私がいちばんよ」と断言できるのは彼女だけなのだろう。そんな全く隙のない圧倒的な自信を彼女が持っていたのを感じたし、そういった自信が彼女のオーラを作っていくのか、オーラを持って産まれたからここまで登り詰めたのか、どちらが卵かニワトリかは定かではないが、とにかくそのピカピカな自信が彼女の、曲やパフォーマンスをというよりも、存在自体を凄みのあるものに感じさせているのは間違いない。
そんなことを考えながら家路につき、当然のようにyoutubeでLADY GAGAを検索する。
そして、ハマってしまった。
そこそこ強い中毒である。ここ数日、LADY GAGAの曲が頭から消えることがない。外出しているときでもふとした瞬間に “BAD ROMANCE” のPVを見直したくなる。あの違和感満載、変態的、かつ完成度の高いビジュアルがちょっとしたクセになるのだろう。しばらくは頭に住み着いたLADY GAGAが立ち退いてくれそうにないのだ。
それで思い出したのだが、NYに住んでいた頃知った言葉で “MTV ADDICT” というものがあった。MTV中毒だ。現在よりネットが普及していなかった時代に、朝から晩までピザやハンバーガーにコーラを片手にMTVを見続ける、そんな人種がたくさん出現した。MTVは視聴者をつなぎ止めるためにより中毒性の強いコンテンツを垂れ流し、視聴者はより強い刺激を求めて次々と流れるPVを飽きもせず繰り返し眺めていた。
イーストビレッジでアメリカ人のアパートをルームシェアしたことがあった。ある真夜中喉が渇いて飲み物を取りに行こうとして、真っ暗なリビングにテレビがつけっぱなしになっているのに気づいた。スイッチを切ろうと思いテレビに近寄った一瞬後、家主がソファに座って無言で画面を見つめているのに気づき、「13日の金曜日」でジェイソンに殺されかけた人と同じぐらいビックリしたことがある。真っ暗な部屋で両目だけがテレビのせいで光っていた。そのときに流れていたのはやはりMTVだったから、彼もまた中毒だったのだろう。余談だが彼はそのうえドラッグ中毒だったことが早々に判明したので、ケンカになり2ヶ月ほどで僕はアパートから追い出されることになる。
話を戻すと、MTVはより多くの視聴者が欲しい、視聴者はより気持ちよくなるPVが見たい、アーティストやプロダクション側はより多くのひとに曲を買ってもらいたい、それらは当然の欲求であって、それが資本主義的な価値観の中で語られた場合、良い商品イコール中毒性の強いもの、という公式ができあがる。
ここで語られているのは芸術的な優劣ではなくあくまで商品としての優劣だ。しかし芸術的な優劣というものが観念的、ともすれば専門的なものさしであるのに対して、商品としての優劣は数字で売り上げとして具体的に示されるものだから強力だ。全米ヒットチャート1位、世界総売上何万枚、といった言葉は世界中のどの人種にもわかり易すぎるほどわかり易く伝わってしまう。中毒者が放つ熱狂や散財は数字になってまた新たな中毒者を産む。隣の人があれだけ中毒してるんだから、そこにはなにかがあるのだろう、と考えるのは人間として自然な心理だろう。
考えてみれば昔から、人間はなにかに中毒しながら生きて来た動物であって、言い換えればより中毒性の強いものを次から次へと発明しながら現在までたどり着いたのが人間の歴史なのかもしれない。
ドラッグの類いは古代からマリファナが使用されてきたのだし、マルクスの「宗教はアヘンだ。」という言葉からも想像できるように、宗教も間違いなく中毒性があるのだろう。そのマルクスが生み出した社会主義思想もまた強い中毒性があったことは歴史が証明している。
身近な例で言えばマックのハンバーガー等のジャンクフードやスタバのコーヒーに中毒症状を示す人は僕の周りにも昔からいた。僕はどうしてもタバコがやめられない。ジョギングにハマって雨の日も走らなければ落ち着かないなんて人も、命がけで岩を登るクライマーも、スピードに魅せられた走り屋なんかも総じて中毒なのだろう。最近ではタイガー・ウッズのセックス依存なんて言葉も話題になっていた。
人間は、中毒から自由にはなれない。
自由にはなれないが、何に対して中毒するかという選択(または偶然)が残されている。
以前インドを旅したときに、ヒンズー教の寺院の奥に入れてもらったことがあった。そこはヒンズーの僧侶がタイル張りの床に車座になって座り、托鉢で信者から得た食べ物を食する部屋で、見ていると僧侶たちは全ての種類の食べ物を少しずつ自分のマイどんぶりに入れ、その上からドボドボと水を注ぎ入れたあとすべてをグルグルとかき回して、まるでお好み焼きの生地のようにして食べていた。
正直に言えば僕には決しておいしそうには見えなかったが、それも当然で、これはどうやら食に対する煩悩を断ち切るための作法であって、味に対する欲求、言い換えれば味覚の中毒を限りなくゼロにして食事を生存のための栄養を採る行為と捉える、そういう考え方の現れなのだそうだ。そうやって僧侶は衣食住、快楽などの中毒を捨て去ることをひとつの目標に生きるのだろう。唯一の中毒の対象を宗教に置いているのだ。
翻って日本を見てみれば、宗教こそ中毒の対象としての魅力を失いかけている気がするが、さらに強力な中毒の対象は日常生活の至るところにあるように思う。
その筆頭はやはり食なのだろう、こんなに食べ物に対して好奇心旺盛で、街のあちこちに様々な国のレストランを見つけられるのは世界を見渡しても日本ぐらいではないだろうか。
先に例に出したジャンクフードは言うまでもないが、僕の周りではラーメン中毒者がとても多く、ひととおり食事をして呑み終わっても、ラーメン屋に寄って行こうと言って聞かない友人は間違いなく中毒症状を呈しているのであろう。
そうしてみると中毒というものは個々人や場所や人種や文化で姿を変え形を変え、対象は変わって来るが人間とともにあり人間の中にあり、人間そのものなのだろう。
怒られるかもしれないが、中毒という水平線からこの世の中を見てみれば、
「あなたは神を信じますか?」という問いかけも、
「うちの豚骨ラーメンうまいっすよ!」という呼び込みも、
「タバコ、やめたいんだけどね、、、。」というあきらめも、
「バァッッドォロォーマァァンス!」というLADY GAGAの雄叫びも、
中毒の原因であり結果であるという点においては違うところは全くない。
それがときとして戦争を起こしたり、警察に逮捕されたり、太っちゃったり、浮気がばれて謹慎したり、そんなことの引き金になってしまうこともあるのだろうが、それが素晴らしい芸術や、多くの人を救うような発明や、目の前の人を笑顔にするアイデアなんかを生み出す原動力になることだってあっただろうしこれからだってあるにちがいない。
食や栄養に対して敏感な一部のアメリカ人がよく使う表現で、”What you eat is what …
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物心ついてから現在まで、一度でさえ整理上手になれたことがない。
毎日ちょっとずつ整理する、使ったモノはすぐしまう、必要ないモノは極力捨てる、そういった能力が完全に欠け落ちているせいで、ときとして思わぬところで探し物に時間を食ったり、逆に予想外のモノが予想外のところでひょっこり現れたりすることがしばしばある。
古いネガを探していて、また別のモノに出くわしてしまった。
映画「愛してはならない」ポスター
監督:佐尾井貞之 製作:WAOWAO エキゾチカ
* * *
ポスター撮影は僕が行い、公開は日比谷シャンテにて来月半ばから。
というのは真っ赤なウソで、いや、撮影は僕がしたことは本当だが、それ以外は全く架空の話である。監督である佐尾井貞之も実在しなければ、WAOWAOという会社が映像業界で稼働していればなんらかの問題がありそうだ。
実はこれは映画「パレード」(監督:行定勲 製作:WOWOW ショウゲート)の劇中に使用された映画ポスターなのだ。
竹財輝之助くん演じる丸山友彦という青年が出演している映画、という設定だ。ちなみに監督の佐尾井貞之という名前は「さおいさだゆき」→「ゆきさだいさお」である。
まるで韓流のようなタイトルやビジュアルにおける世界観は行定監督の遊び心が基底になっているのだが、それを踏まえ作製する側、デザイナーさんや撮影の僕やキャストの二人、は本気の全力投球である。
事前にデザイナーさんと綿密な打ち合せを済ませ、キャストに詳細な世界観を理解してもらい、最適と思われる機材を準備して、挑む。そういったことは、実際のポスター撮影となんら変わりはない。真剣である。
そんな真剣勝負ででき上がったポスターであるが、劇中にメインで使用されたモノはそれこそ遊びといえるようなサイズではなかった。
正確な寸法はまったく失念してしまったが、そのカットだけは横長で、横6m、縦3mぐらいの大きさがあったのではないだろうか。
日比谷シャンテの壁の、通常は縦位置のポスターが3枚分貼られている広告スペースに、「パレード」美術部ならびに演出部の手で掲げられ撮影された。
映画の中では短いシーンなので、比較的気にならずに流れてしまうのかもしれないが、一度ストーリーがわからなくなるぐらい集中して見ていただきたい。
* * *
映画の劇中に、撮影した写真が登場するというのはいろいろな意味で新鮮で、写真や映画に対する認識をその都度新たにしてくれる。
当たり前の話で恐縮だが、写真と映画(や映像)の違いはひと言で言えば時間軸にある。
1点を凝縮し凍結してその瞬間をつかむ、というのが写真の基本的な性格で、そこに他の瞬間が入り込む余地はない。
対して映画はある瞬間が地続きで他の瞬間にコネクトしていなければ成立しない。
撮影場所や撮影時間がどれだけ離れていようが、ひとつの瞬間は複数の他の瞬間に接続していることを前提としている。
撮影した写真が映画の中に現れるということは、このポスターのようにある1点の瞬間をつかんだ結果であるモノが、再び混沌とした時間軸の渦に放り込まれ、映画という時間軸の中で、新たに他の瞬間と接続し始めるという感覚を与えてくれる。
それが錯覚なのかどうかは横に置いといて、その感覚が普段の僕の写真に対して持つ認識を、少しだけ快く揺らしてくれることは確かなのだ。
映画を観ていて、あまりにも美しいシーンに遭遇して、「ここで止まったら良いのに!」と思うことがある。
写真を見ていて、その続きが知りたくて、「これが動いたら良いのに!」と感じることもある。
その感覚はまったくネガティブなものではなく、それが写真に対する愛情も映画に対する愛情も、そう思うたびに少しずつ深めてくれるような気がする。どちらも完全であって同時に不完全なのだ。
ただ自分勝手なもので、僕が撮った写真が映画に登場する瞬間は、例外なく「ここで止まれ!」と心の中でつぶやいている。
ちなみに、探し中のネガはまだ見つかっていない。
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