Yearly Archives: 2014
18
酸素不足と頭痛と睡眠不足と空腹で、もう頭はぼんやりとして用をなさない。
硬い座席にぐったりと沈んで、疲労と睡眠の間を行ったり来たりしているうちに3日目の夕陽が沈んで行った。バスはいまだに街に入る気配もない。
もう本当にうんざりだ。
どことも知れない今すぐここで、このバスを降りてしまいたい衝動に駆られながら、ウトウトと眠くなる。だからといってぐっすりと眠れるわけでもない。ちょっとしたバスの揺れで意識はこちら側に戻ってきてしまう。
ラサ到着まで残りどのくらいの距離なのか、せめてそれだけでも知ることができたなら。
手も足も出ないこの状況に、ただ丸くなって耐えなければならないのはあと何時間なのか、せめてそれだけでも誰かに質問できたなら。
この暗闇をあてどなく歩き続けているような心細さを、少しは小さくできたはずなのに。
もちろん僕にはそのどちらもできなかった。そんなことをすればネズミ男のルールを破ることになってしまう。ルールを破ったらラサには到着できないのだ。せっかくここまで我慢したゲームもすべて終了。そのうえゴルムドまでの数十時間を再び耐えなければならなくなるだろう。
どちらにせよ、あらゆる意味で限界が近いことは僕自身よくわかっていた。
(つづく)
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17
頭が痛い。
バスが山を登るほどこめかみの鈍痛がひどくなる。
もうこの旅も3日目だ。
ここがどの辺りなのか見当もつかない。ラサまであとどれくらいなのか、誰にも訊けない。もうすぐ到着するのかもしれない。まだまだ着かないのかもしれない。
あれから検問がさらに2つあった。ひとつは公安が車内をジロジロ眺めるだけで終わったが、もうひとつは2人の乗客がその場に降ろされた。
僕にはその理由がまったくわからなかった。そのことを誰かに訊ねることもできなかった。そしてその情報の無さが僕の不安を徐々に大きいものにしていた。こめかみの鈍痛は単に高度のせいだけでもなさそうだった。
バスはひたすら山を登り続けている。さっきから下り坂をまったく見ない。空気が薄い。少し息苦しい。
なんとかなるさ、といった根拠のない楽観主義はいつしか僕の中から消え去っていた。次は僕の番かもしれない。次の検問で目を付けられてバスを降ろされるのは僕かもしれない。いや、僕ひとり降ろされるならまだましだ。許されない外国人がこのバスに潜り込んでいることが原因で、バス全体がゴルムドにとんぼ返りを強要されたとしたら。すでに60時間以上の長旅に、黙然と耐えている他の乗客たちが、そうなったとき果たして僕のことを笑顔で許してくれるのだろうか。そんな想像はいつしか僕の心の中で発芽して、不安という腐臭を放つ花を咲かせてしまったようだった。
置かれた状況を考えれば考えるほど、無事では済まないような気になってくる。答えの出ない無限ループにはまり込む。しかし体が疲れすぎていて、思考が半ば麻痺していたのはむしろ幸いだったかもしれない。
ひとつの考えに集中できないほど麻痺していたおかげで、悲観的な不安の中心に沈み込まずに済んだのだから。
(つづく)
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16
1階にたどり着くとそこにはフロントがある。
安宿とはいえ眠そうなおじさんがひとり、番をしている。
それまで抜き足差し足低姿勢で進んで来たネズミ男が、フロントの前は普通に歩いて通り過ぎた。ここは隠れるとこじゃないの?もうどういうことか、わけがわからない。僕はごくふつうにチェックアウトして部屋の鍵を返却した。
扉を開けて一歩中庭に出ると、そこにはまた姿勢を低くしたネズミ男がいた。ここからまたしてもスパイもどきのようだ。
僕がからかわれているだけなのだろうか?
25メートル先の門までまたスパイもどきの低姿勢で進み、門を開け道路に出るとそこには一台の車が停まっていた。車種はわからない。それほど埃だらけでオンボロな白い乗用車。ネズミ男の後に続きこの車に乗り込んだ。
なんとなく一息ついた雰囲気で、ネズミ男が車を発進させた。
向かうは長距離バスの停留所だ。
5分ほど車を走らせ、バスが3台停車している広場の隅、街路樹の陰の目立たない場所に停車した。車の中でレクチャーが始まる。
「お前は中国人ということにしてあるから、バレたら追い返される。コートは最後まで脱ぐな。帽子も脱ぐな。目立つな。誰とも話すな。車掌には『こいつは口が不自由だから』と言っておく。飯もひとりで食え。誰とも一緒になるな。注文するのも聞かれるな。これを持って行け」
ポケットから中国語の芸能雑誌。
「ずっと読んでいるフリをしろ。いいか日本人だとバレたらその場で降ろされるぞ。ひどいときにはバスごと追い返されるぞ。どんなにラサの近くまで行ってようが、公安はそんなこと平気でやるぞ」
ネズミ男が全身から発していた緊張感にあてられて、僕も少しずつ硬くなる。
ひと通り説明が済んだと見えて、ネズミ男は僕を外へ促した。荷物を持ってバスへ向かう。バスの周りでは車掌らしき男と数人の乗客が出発を待っていた。
ネズミ男が車掌に話しかけ、何度か僕の方を指差しながら相談している。口が不自由なんでよろしく頼む、なんてことを話しているのだろうか。車掌は僕の荷物をバスの屋根に載せた。無表情で僕を凝視するネズミ男を残し、バスに乗り込んだ。座席は8割方埋まっている。後方に席を見つけ腰を下ろす。窓の外にネズミ男の姿はすでになかった。
15分ほどしてバスはエンジンをかけた。さらに15分ほど暖機運転をしてからのろのろと出発した。
こうして僕はこのバスの旅に出た。
(つづく)
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15
やはり気が張っていたのだろうか、翌朝は日が昇る前に目が覚めた。軽く朝食をとり、荷物をバックパックに詰めてからさらにそれをズタ袋に入れる。
人民軍の中古コートを着て人民帽をかぶる。
そのまま鏡の前に立つ。なるほど、中国人に見えないこともない。6時を少し過ぎてドアにノックの音。開けるともう見慣れたネズミ男の顔。
もともと表情に乏しいその顔が、早朝だからなのか能面のような無表情だ。
それにしても宿泊客でもないこの男はどうして、安宿とはいえ、この宿を自由に出入りできるのだろう、とこのときふと不思議に思った。
しかしそんなことを詮索するヒマもなく、小声でネズミ男が話しかけてくる。このときになると不思議とこの男の言わんとすることが、なんとなくだが理解できるようになっている。
「準備はできたか?」といって僕の荷物が計画通りズタ袋に入れられているのを確認する。
「声を出すなよ」シー、と口に人差し指をあて「荷物を持っておれについて来い」と手振りで部屋の外へ。ネズミ男はまず姿勢を低くし、音を出さずに廊下を少し小走りに進む。階段のある角まで行き膝立ちになり、顔だけ階段の方へ出し様子を伺い、誰もいないとわかると後ろの僕に合図を送る。
「よし、来てもよし」
僕もネズミ男に倣い、低い姿勢かつ小走りでネズミ男のすぐ後ろまで移動する。荷物を持っているので僕の場合はドタバタと音がする。それをネズミ男は咎めて「音を立てるな」と少し怒った小声で言う。
ネズミ男はもう一度階段の方へ顔だけ出し、様子を伺ってから「よし!」といった感じで、今度は踊り場まで移動。手すりの陰から顔だけ出して階下に人がいないことを確認、「よし来い」と僕に手招きする。
まるで安物B級のスパイ映画だ。
心の中でそう思ったが、ネズミ男の緊張感に満ちた真剣な表情につられて笑う気にはならない。
3階の部屋から1階に降りるまで、この低姿勢小走りを2人して繰り返したのだった。
(つづく)
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14
その夜、輪郭がなにもかも暗くぼやけたようなゴルムドの街。どこをどう歩いたのか皆目見当もつかないような路地の奥。橙色の裸電球がぼんやりと照らす露天の古着屋に、ネズミ男は僕を連れて行った。
ひとかけらの迷いも見せずに「これを買え」とあいつが選んだものは、あちこちシミの付いてすり切れた中国人民軍のカーキ色のコートだった。300円也の古着を言われた通りに買いそのまま着てみると、その外見とは裏腹に、造りはとても頑丈で分厚いものとわかった。「軍用品だ」と実感したが、コート全体から発するかび臭さには閉口した。
さらに「これも買え」とネズミ男は帽子をひとつ差し出す。額の部分に赤い星のついた緑色の人民帽。ドラゴンボールのウーロンみたいだな、そう思いながら買った帽子をコートのポケットに押し込める。
そしてもう一軒。さらに路地の奥まった場所にある雑貨屋に行き、巨大なズタ袋を買えと言う。
「お前の鞄がダメだ。あの青い鞄をこの袋の中に入れろ」
声を低く落とし、油断無く周りに目を走らせながらネズミ男が言う。
「中国人に偽装しろ」と。
「翌朝6時に迎えに行く」と小声で言ってネズミ男は路地に消えて行った。僕は帰り道に迷い、宿を探し出すまで2時間歩いた。
(つづく)
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13
翌日、小さな街をぐるりと一周し、遅めの朝食を食べて宿に戻ってくると、ドアの前でネズミ男がちょこんと体育座りをしてこっちを見ていた。
詐欺ではなかったと少し嬉しくなったのと、子供のようなその座り方が滑稽だったのとで、思わず声を出して笑ってしまった。
ネズミ男は少し苛ついた表情をしたが、すぐにポケットから茶色い封筒を出して僕によこしてきた。中を見るとどうやら昨日話したラサ行きのチケットが入っているようだ。
約束通りに商品を持って来たネズミ男に成功報酬2千元を手渡そうとすると、ネズミ男は意外なことを言いはじめた。
このチケットを持っているだけではバスに乗れない、そう言うのだ。
お前の服装がダメだ、お前の鞄がダメだ、と続ける。つまり、お前は日本人とバレてしまうからダメだ、と言っているのだ。
そんなことを言うくらいなら初めから説明しろよ、と苛つきはじめた僕にネズミ男は、「今夜8時に迎えに来るからこの部屋にいろ。いいか8時だぞ。必ずいるんだぞ」と一方的に言い残し街に消えて行った。
バスの出発は明日の朝7時。
ネズミ男の話していることの6割ぐらいは理解できなかったが、何か良い解決策でもあるというのだろうか?
(つづく)
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12
薄暗い橙色の裸電球の下で、白いヤモリが壁を横切った。
ネズミ男はさっきよりも輪をかけて不敵な笑みを僕に向け、チケット買いに行くから金をよこせ、と詰め寄ってくる。
最初から濃厚な胡散臭さを感じている僕は、4千元よこせ、と迫ってくるネズミ男をなだめすかし2千元だけその場で渡し、残りはチケット持って来てからだ、として手を打った。
明日また来る、と言い残してネズミ男は街の闇に去って行った。
暗くシンとした部屋で、少し冷静になって考えてみる。
どうやらこれは、2千元やられたということか?
どう考えてもネズミ男がチケットを持って戻ってくるとは思えなくなってきた。こういう手の詐欺なんだろうか。
歯嚙みするほどではないものの、騙されたかもしれないことに少し悔しくなってきて、勉強代勉強代、と唱えながらシーツもない粗末なベッドに潜り込み寝てしまうことにした。
電燈の下、くるりと振り向いたヤモリが不敵に笑ったように見えた。
(つづく) 1234
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11
ゴルムドに到着したあの夜。
あの男は安宿の僕の部屋をノックした。少しだけ開けたドアの隙間からヌッと出てきたその顔は、マンガのネズミ男にそっくりだった。
これほどネズミ男に似ている顔が現実に存在することに驚いた。濁った両目が同時にギラついているようにも見えて不思議だった。ネズミ男が何やら話しだした。
早口の中国語で内容は全くわからないのだが、シージャン、ラーサといった単語が所々に出て来たので、夜の街へ遊びに行こうというお誘いでないことはすぐに理解した。僕が中国語をちっとも理解しないので、もどかしそうにネズミ男は紙とペンをポケットから取り出し、「西蔵」と書いてから僕の顔を指差した。
西蔵(シージャン)は中国語でチベットのことだ。
お前はチベットに行くのか?とごく単純なことを質問していたのだ。
シー(はい)、と答えると、ネズミ男は少し不敵な笑みを見せ、そのことで話がある、とばかりに身を乗り出した。もう喋って意思の疎通をはかることは諦めたとみえて、達筆でさらさらと紙になにやら書き込んだ。
「汽車」「車票」「中國人」「外國人」。
日本語にすると「バス」「チケット」「中国人」「外国人」となる。ネズミ男は「バス」を指差し、そしてそのまま僕を指差した。「チケット」「中国人」を指差し、続けてネズミ男自身を指差す。「外國人」を指差してからまた僕を指し、そして右手の親指を人差し指と中指2本とこすり合わせた。「お金」を意味するジェスチャーだ。
そこに至ってやっと僕にもネズミ男の意図が分かりはじめていた。つまりネズミ男は僕を中国人専用バスに乗せたがっていたのだ。ネズミ男は淡々と説明を続けた。
曰く。
ラサに行くにはここ(ゴルムド)からバスに乗らなければならない。
バスには外国人用のものと中国人用のものがある。
中国人は外国人バスには乗れない。
外国人は中国人バスには乗れない。
外国人は中国人バスのチケットを買えない。
外国人バスのチケットは2万元、中国人バスのものは2千元。その差10倍—。
10倍、の部分にアンダーラインを引いた後、「だからお前のために私がチケットを買おう。」
要するに外国人である僕が買えない「中国人バスのチケット」をネズミ男が買い、それを持って僕が中国人バスに乗ってラサに行く。ネズミ男は4千元でやってやるという。要するにダフ屋。僕のメリットは言うまでもなくラサ行きのバスに格安で乗れること。
どうだ?どうだ?とネズミ男の強い押しに負け、つい「じゃあそうしよう」と頷いたのが僕の思慮の浅さだと後々気がつくことになる。このときはただ、格安のチケットが買えるならそっちのほうが良いだろう、と「貧乏旅行者」と銘の打たれた算盤を弾いたのだった。
(つづく)
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10
5分ほどの会話の後、相変わらず無表情な公安が、捨て台詞のような雰囲気で一言ピシャリと言い放つと同時に、降りろ、とでも言うかのようにその乗客を外へ促した。緩慢な動作で立ち上がり、バスを降りる乗客。
運転手も呼ばれて外へ出る。公安に何かを言われ、彼もまた緩慢な動きでバスの屋根によじ登り、ひとつの荷物を地面にどさりと投げた。
少しふてくされたような態度でその荷物を拾う乗客。
運転手はそんなことを気にする素振りも見せずバスに戻ってきた。運転席に座り直してからまた窓越しに公安と何かを話し、そしてエンジンをかけアクセルを踏んだ。
乗客ひとりをランタンの光の中に残したまま、バスはまた走りはじめた。
理由はわからない。はっきりしているのは、あの乗客は途中で降ろされたということだ。
まさか彼の目的地があの場所だったということはないだろう。
彼の表情や雰囲気のすべては、彼が不本意に置き去りにされたことを意味していた。
ゴルムドでネズミ男が言っていたことは嘘ではなかった。
「公安がお前を追い返したくなれば、それがラサの100メートル手前だったとしても簡単に追い返せるのだから」
何度も繰り返しネズミ男は言っていた。
「そうならないために、お前はおれのルールを守れ」と。
それが現実のものとして目の前で繰り広げられた今、あといくつあるのかもわからない検問を全て何事もなく通り抜け無事にラサまでたどり着くことが、思っていたよりもはるかに無謀な計画であるように感じられてきた。
ネズミ男はもうひとつ付け足してこうも言っていた。
「失敗した場合、お前ひとりが追い返されることもあるが、バス全体乗客全員がゴルムドに戻される場合もある」
それがうっすらと現実味を帯びてきたこのときになってやっと、この賭けがとてつもなく危険なものだったことに気づいた僕は、やっぱり浅はかで世間知らずだったのだろう。
(つづく) 12345
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9
白い光。
速度を落としつつ、バスはそこに向かって一直線に走っていく。
その光源に、バスのヘッドライトが届くぐらいの近さになってようやく、緑色の制服が目に入った。同時にそこが公安警察の検問所であることを知った。
少し息が早くなる。
バスを停めた運転手は、窓越しに公安のひとりと真面目な顔で話している。使い古したランタンを左手からぶら下げているので、さっきの白い光はこの警官が回していたのだろう。
ランタンの取っ手が揺れるたびに、小さくキィキィと不快な金属音がした。
周囲には10人ほどの公安が、無表情な顔でバスを眺めている。
僕は目立たないように、できるだけゆっくりとコートのポケットから緑色の帽子を手にとり、そっとそれをかぶり、座席に深く身を沈めた。
気持ちの悪い汗をかいているベトついた僕の肌が、さらに不快な熱を帯びる。
昨日の検問と同様に、公安のひとりがバスに乗り込んできた。
無表情で運転手と話し込んでいる。
顔を見せないように、ぐっすり寝ているようなフリをして俯いていても、意識は強く緑色の制服に吸い寄せられていく。
公安と運転手の会話が途切れ、エンジンも止まった車内はまったくの無音になった。外にいる制服組も、車内の乗客もだれひとり口を開かなかった。
緑色の制服は運転手の横に立ったまま、乗客ひとりひとりを仔細に眺めているようだ。時間がとてつもなく長く感じられる。
揺れるランタンだけがキィキィと鳴った。
視線をひと通り車内に這わせた後、公安は無表情なままささやくように、前列に座っていた乗客のひとりに何かを話しかけた。乗客も何事かを答える。
中国語なので2人が何を話しているのか、僕にはさっぱりわからない。ただこのとても静かな会話が少しずつ、不穏な空気を孕みはじめたことには気がついていた。
(つづく)
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